●02〜05ページ
平成23年8月(2011 AUGUST)

●2ページ

豊中空襲
1945
慰霊碑や遺物からたどる記憶

全国各地で米軍の空襲が激化した太平洋戦争末期の昭和20年(1945)、豊中市内でも6回にわたる空襲があり、死者575人、負傷者898人、罹災家屋3,540戸を数え、大阪府内で3番目に大きい被害を受けました。
戦後、犠牲者の冥福を祈り、平和への願いを未来につないでいこうと、市内にはいくつかの慰霊碑が建てられるとともに、さまざまな遺物が保管されています。今回の特集では、それらから浮かび上がるかつての戦争の記憶を豊中空襲体験者の皆さんに聞きました。



●3ページ

戦いのむごさを伝える
米軍戦闘機の残骸
今年6月、市役所第二庁舎ロビーでパネル展「検証 豊中空襲」が開かれました。そこに数々の資料や写真とともに展示されたのが、米軍戦闘機P-51のプロペラ(写真左)や主翼の一部。豊中空襲で撃ち落とされたP-51は、その残骸が戦後約40年たった昭和59年に地中から発掘され、現在は市が保管しています。
焼けた跡もなく、そのままの形をとどめている戦闘機の残骸から特別な光景を思い出す二人がいます。

鮮明によみがえる
衝撃的な光景
当時、明徳国民学校(現克明小学校、岡町北)6年で、同級生だった私たち。運動場を開墾して作物を作ったり、松の木の油を集めたりと、全てが戦争のためでした。まだ新しかった校舎を「敵機に狙われるから」と、墨で真っ黒に汚したのも思い出します。食べるものがなく、授業もまともにできない日々を、先生も生徒も懸命に過ごしていました。
あの強烈な光景を目撃したのは、昭和20年7月30日、豊中を襲った6回目の空襲のとき。夏休みでしたが行事のため登校し、学校に着いた途端に警戒警報が発令され、二人で家へ帰る途中でした。すると突然、阪急電車の線路向こうの東の方角から大阪第二飛行場(現大阪国際空港)めがけて米軍機が低空飛行でやってきたのです。当時は、田畑や空き地だらけだったので、よく見えました。警防団の人に「隠れろ」と言われ、慌てて用水路に飛び込み、わずかな隙間から見えたのは、P-51が地上からの高射砲で撃ち落とされる瞬間。空中分解したP-51からパラシュートが開き、南西の方へ流れていくのがはっきりと見えました。

空襲におびえる日々が
終わって
後日聞いたところ、パラシュートで落下した米軍兵士は、岡町北の民家の松の木に引っ掛かり、住民たちが、鍬や鎌を持って兵士を取り囲んだとのこと。兵士はピストルを構え、抵抗しようとしましたが、憲兵に連れていかれたそうです。機体の残骸は後日、住民が集めて土の中に隠しました。このことは多くの住民が知っていましたが、その後、占領軍によって戦犯として裁かれるのではという恐れがあったのか、公には語ろうとしませんでした。
撃墜の瞬間は、二人で「やったー」と叫びましたよ。多くの子どもがそうだったように、私たちも兵隊に憧れる少年でしたから。それでも、終戦を迎えたときは、もう空襲におびえずに済むのだなと安堵する気持ちになったものです。あれから65年以上たった今、戦争を知る人が少なくなりました。人間は長く争いの歴史を繰り返してきました。私たちはそのことを事実として受けとめ、語り継ぎ、現在、そして未来のあり方を考えていかなければと思っています。



●4ページ

恒久の平和を祈り
犠牲者を追悼
毎年、市内で行われる「戦没者ならびに空爆犠牲者追悼式」。以前は、豊島公園(曽根南町)にある「てしまの塔」で行われていました。てしまの塔は、豊中の戦争犠牲者を慰霊するために昭和43年に建てられたモニュメントで、戦没者や戦災死者の名簿が納められています。豊中空襲で家族も家も失ったという山岸治郎兵衛さんは、今も欠かさず追悼式に参加し、献花を続けています。

家族も家も奪われ、
残ったのは爆弾の穴だけ
当時、私は園芸学校(現府立園芸高校、池田市)に通っていました。春に入学したばかりで、まだ12歳。6月7日、授業中、植物に水をまくタンクに上ると、私の家のある走井の方向で煙が上がっているのが分かりました。先生に非常用の乾パンをもらい、すぐ帰宅するよう言われました。いつもは自転車でしたが、この日は雨で電車通学。駅に着くと、豊中駅近辺に1トン爆弾が落ちて電車が不通になっていたため、仕方なく歩いて家に向かいました。家に近づくにつれ、辺りはどんどん無残な状態に。嫌な予感がしました。やっとわが家にたどり着くと、門も蔵も家屋そのものもなく、そこにはただ、直径20メートル、深さ5メートルほどもある大きな穴が開いているだけでした。
家族の安否は全く分からず、翌日から親戚宅に世話になり、家族を捜しました。最初に見つかったのは、離れで寝ていたはずの祖母。爆風で田んぼに投げ出されて亡くなっていました。続いて牛小屋があった辺りで父の遺体が見つかりました。牛を避難させようとしていたのでしょう。最後にほとんど骨だけになってしまった母、姉、妹の3人が見つかりました。母と思われる骨は、恐がる子どもたちを守ろうとしたのでしょう、真ん中で姉と妹の肩を抱くように。指輪をしていた骨は婚約中だった姉、もう一つの小さな骨は5歳の妹だと判断しました。

今も思い出される
家族のこと
こうして一瞬にして家族5人を失い、一人きりになりました。このときは頭が真っ白で、ただ「ああ、みんな死んでしまった」としか思えませんでした。その後、親戚の助けもあり、学校へ通い、働き、夢中で生きてきました。爆弾で開いた地面の穴も、まるで過去の出来事を覆い隠すかのように何年もかけて一人で埋めました。しかし、家族が生きていたらどんなことをしただろうとずっと考えています。空襲当日、私が登校するとき、「兄ちゃーん、いってらっしゃーい」と無邪気に防空頭巾を持った手を振りながら、私が見えなくなるまで見送ってくれた妹の姿が忘れられません。その命が一瞬にして奪われ、二度と会えなくなってしまった。戦争というのは、そんな別れをもたらすものなのだと、皆さんに知っておいてほしい。



●5ページ

犠牲となった女学生たちの
思いを伝える
昭和50年に出版された「ほむら野に立つ」は、豊中高等女学校(現府立桜塚高校、中桜塚)の卒業生がつづった、学徒動員や空襲の記録。「ほむら野」とは、炎に包まれた麦畑の光景をさしています。当時の出来事を伝えようと、昭和51年、本の売上金で同高校の敷地内に「ほむら野」像を建てました。出版の中心的な役割を果たしたのが、同校出身の広実輝子さんです。

勤労奉仕が
国のためと信じて
当時、私は16歳。豊中高等女学校の4年生でした。昭和19年から学徒動員が始まり、2年生以上は勤労奉仕で庄内地域にある工場で戦闘機の部品を作っていました。授業はほとんどなく、朝からずっと部品作り。それでもみんな自分たちの働きが国の役に立つのがうれしく、作業が進まなければ「徹夜させてください」と申し出る生徒もいました。
6月7日、午前の休憩後に警戒警報が発令され、防空壕に。そのうちに爆撃が増し、ばらばらに麦畑へ退避するよう先生から指示がありました。昼間なのに空は真っ暗。そして、米軍戦闘機の射撃が始まると、生徒たちは雨の麦畑を泥だらけになって逃げ惑いました。もう、恐ろしくてしょうがありません。容赦なく機銃掃射が浴びせられ、私の左腕に弾が貫通。血が流れ、激痛で自分の傷が見られませんでした。

尊い命を争いで
失ってはいけない
麦畑に火がついて燃えだし、今度はそこにいては焼け死ぬ状態でした。なんとか道に出て助けを求めましたが、誰も振り向いてくれません。息が苦しくなり、死ぬってこんなにつらいんだなと思った途端、生きていることがなんと素晴らしかったのかと感じられ、何が何でも生きたいと強く思いました。
ようやく一人のおじいさんが立ち止まって止血を手伝ってくれ、近くにいた男子中学生と私を抱え上げてくれました。戦闘機が近づくたびに麦畑に隠れ、上昇するとまた私を抱えて逃げて。2、3回そんなことを繰り返しているうちに、おじいさんが麦畑から出てこなくなりました。「おじいさーん、おじいさーん」と呼んでも返事はありません。男子中学生は私をトタン板に乗せ、救護所まで運んでくれました。麦畑で撃たれたであろうおじいさんは、私を助けなければ生きていたのにと思うと今も心が痛みます。
この日、7人の生徒の命が奪われました。それまで私は、戦うのは正義のためと信じていました。でも、死を目前にして命の尊さを知りました。人間が人間を殺すのは間違っている。戦争は絶対にしてはいけないのです。


豊中空襲の真実を伝えるDVD
「戦争の日 豊中の生徒たちの記録」
市は、豊中空襲の体験者が戦時中の生活の様子や思いを語った映像のDVDとビデオを作成しました。
映像は市ホームページで、ビデオは各図書館で見ることができます。
■問■広報広聴課■電話■6858-2028