奥野家住宅
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更新日:2023年5月11日
登録文化財
奥野家住宅
(おくのけじゅうたく)
所在地:豊中市中桜塚2-30-35
登録年月日:平成20年(2008年) 7月8日
主屋 附旧粉搗場1棟、門長屋1棟、西蔵1棟、米蔵1棟、
東蔵1棟、新蔵1棟、中門附属脇塀1箇所、露地門及び高塀1箇所
奥野家住宅は阪急宝塚線岡町駅の東方に位置します。江戸時代には庄兵衛(しょうべえ)の名で桜塚村安部藩領(さくらづかむらあんべはんりょう)の庄屋で、明治時代には戸主・村長を務めました。屋敷地は能勢街道と箕面街道をつなぐ脇街道沿いにあり、面積1,680平米の敷地の中に主屋をはじめ門長屋、土蔵5棟、附属屋、中門、露地門などが建っています。
脇街道に接した門長屋、土蔵、板塀は内外数本の巨樹とともに、市街化した地域の中にあって昔の村時代の面影を偲ばせてくれます。
阪神・淡路大地震では多くの建物に被害を被りましたが、その後の所有者の努力によって、見事に修復されました。
現在、主屋はコンサート会場として市民にも開放されるなど、積極的な活用が図られています。
<主屋 附旧粉搗場(こなつきば)>
主屋は周囲に瓦庇を廻らせた大型の農家建築です。
改修により座敷廻りを残して他は大きく変更されましたが、梁組や柱位置はほぼ当初のままです。
部材の痕跡や当家に伝わる家相図にもとづいて、当初のかたちを復原することもほぼ可能。このように建物の履歴が明らかな点からも、その学術的・文化的価値は高いと言えます。
<門長屋>
潜り戸を附属させた両開き戸をもつ門口と、その北側につく供部屋(6畳大)から成ります。以前は門口の南側に男部屋(のち納屋)と納屋からなる長さ5間の長屋がありました。
江戸後期の建築と考えられ、南半分を失っているものの門長屋としての構成要素は保っており、地域の景観にも貢献している建物です。
<西蔵>
門長屋の北側に接して建つ土蔵で、内部は中央に壁をもうけて南北二室に仕切っています。北部分は壁の上に換気用の隙間のある板壁をもうけており、その分だけ屋根が高くなり、一棟でありながら段違いの二棟になっています。江戸後期と推定されます。
<米蔵>
敷地北東部に建つ、最も大きな土蔵です。
当家文書の帳面に「明治四十参戌年 乾蔵棟上云々」とあり、明治43年(1910年)に乾蔵の名で建てられたことが分かります。
年貢米の収納か村の郷蔵として建て供用されたものではないかと考えられます。
<東蔵>
米蔵の東側に近接して建つ土蔵で、もとは西蔵の東方におよそ1間半離れて建っていました。
最古の家相図に該当する蔵は描かれていないことから、主屋より後の建築と推定されます。
<新蔵>
敷地の南東隅に建つ土蔵で、切妻造、本瓦葺の置屋根形式になっています。「明治十丑年七月大吉祥日」の箕面山の護摩札があり、米蔵についで新しい明治10年(1877年)の建築です。
<中門 附属脇塀>
「内門」とも記されます。門長屋と主屋の間にあり、敷地の内部区画を明確にしています。
幅1間の両開き板扉をもつ腕木門であり、江戸後期と推定されます。
<露地門及び高塀>
「中門」とも記されます。主屋表玄関の前横にあって、主屋前庭と座敷前庭とを区画しています。両開きの扉口と袖壁をもつ凝った造りの腕木門です。扉は丸太を切ったものを戸框に用い、表裏から別々の板を張り、格子窓を持ちます。肘壺や八双の金具などは本格的なものが使われており、幕末から明治初期の造作に関わるものであると考えられます。
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