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部落差別(同和問題)を詳しく知るために

ページ番号:311483872

更新日:2025年1月30日

部落差別(同和問題)に対する理解をさらに深めていっていただくためのページを作成しました。

ご寄稿

関西大学名誉教授 石元清英さんよりご寄稿いただきました。
石元清英さんには、本市の人権文化のまちづくりをすすめる協議会の会長も務めていただいています。

部落問題に関する新たな啓発の創造 / 石元清英

1.部落問題に関する3つの誤解

 日常の生活で私たちが身近な人と部落問題について語り合うことなど、ほとんどないといってよい。そして、テレビや新聞などのマスメディアでも、部落問題が取り上げられることは非常に少ない。そのため、部落問題について誤解していることがあったとしても、それを口にして身近な人から間違いを指摘されることもなければ、マスメディアの情報から間違いに気づくこともなく、当人はその誤解を持ち続けることになる。
 では、部落問題についての誤解とは、どんなものであろうか。大きな誤解として、つぎの3つをあげることができる。
 第1に、被差別部落(以下、部落という)は江戸時代の賤民身分の子孫が代々固まって住み続けている閉鎖的な地区であり、部落には部落出身者しか住んでいない。
 第2に、部落出身者は部落出身者どうしで結婚を繰り返しており、部落では近親結婚が多い。
 第3に、部落出身者は血筋が異なるので、差別される(部落差別の根拠は血筋の違いである)。
 第1の誤解は、転居の際に部落を忌避する意識につながり、第2の誤解は、結婚の際に部落出身者を忌避する意識につながる。そして、第3の誤解は、部落出身者に対する異質視につながり、部落や部落出身者に対する忌避意識をさらに強めてしまう。
 これまでの部落問題に関する啓発では、現代社会における部落差別の厳しさを強調することによって、部落問題が重大な社会問題であることを伝えてきた。そして、部落問題への理解を深めるために、江戸時代における身分制度や厳しい「差別」のありようなど、「部落の歴史」が取り上げられてきた。近年では、中世の庭造りや能楽、近世の腑分け(杉田玄白らが小塚原で刑死体の解剖を見学した際、穢多が執刀し、各臓器の説明を行った)など、文化や医学の面での賤民身分の人たちの貢献に焦点をあてた、悲惨史ではない「部落の歴史」も紹介されるようになってきた。
 しかし、部落問題は自分には関係がないと考えている市民に対して、部落差別がいま現在も厳しいことを強調しても、「そんなに強く差別されているのなら、部落はよほど変わったところなのだろう」と、部落の異質視を強めるだけで、部落問題が自分にも関わる問題であるという気づきは生まれないであろう。そして、啓発で「部落の歴史」が取り上げられる際、主として江戸時代までが語られ、明治以降、部落がどのように変化し、現在に至るのかが詳しく語られないため、部落は江戸時代の状態のまま今も続いており、部落出身者は、すべて江戸時代の賤民身分の子孫であるとの誤解を生むことになったといえる。
 部落問題に関する啓発において、現在でも部落差別がなくなっていないことを強調したり、部落の歴史を丁寧に説明するより、多くの市民がもつ部落問題に関する誤解を具体的に指摘し、それらがどう間違っているのかを示すことのほうが、部落問題を誤解していたことに気づくという点で、市民の心を動かす啓発になるのではないか。そして、その気づきが自分のなかにある部落や部落出身者に対する忌避意識を自覚することにつながり、部落問題が自分と無縁ではない問題であると認識するのではないか。また、その気づきが部落問題に対する関心を高めることも期待できる。さらには、身近な人に自分自身の気づきを話し、それが部落問題に関する議論に発展すれば、それ自体が新たな啓発になっていくのではないだろうか。
 では、前述の3つの誤解は、どういう点が間違っているのであろうか。

2.どうして誤解なのか(第1の誤解)

 江戸時代は身分制社会であり、すべての身分が共通して、その居住地と職業が制限されていたのであり(身分・職業・居住地が三位一体)、賤民身分だけが居住地や職業などの制限を受けていたわけではない。したがって、百姓も侍も、それぞれの身分ごとで固まって住んでいたのである。
 近代社会になると、明治以降の都市の発達、大正以降の都市近郊農村の開発などにともない、人口の流動化が進行する。たとえば、大阪市北区与力町は、江戸時代に奉行所の与力が住んでいたので、地名として残っているが、現在の与力町に行っても、江戸時代の与力の子孫が固まって住んでいるわけではない(現在の与力町は、オフィスビルやマンションが建ち並び、戸建て住宅はほとんどない)。そもそもいまの時代、自分が生まれた所に住み続け、そこで一生を終えるという人は、稀である。親の都合や学卒時の就職、結婚、転勤などによって、転居することは多い。部落も同様で、明治以降、都市部の部落を中心に、人口の流出入が進行した。
 兵庫県内の部落で、最も人口が多いA部落は、もとは穢多村で、1868年は85世帯、388人という規模であった。1899年以降、このA部落の周辺に木賃宿(粗末な安宿)が数多く建てられるようになった。というのは、兵庫県が1899年に宿屋営業取締規則を制定し、木賃宿の営業をこのA部落と、兵庫県内のもう一つの部落に限定したからである。この木賃宿には全国各地から仕事を求めてやって来た貧困層が宿泊し、やがて木賃宿街は大きなスラムになっていく。周辺住民は「部落には部落出身者しか住んでいない」=「部落に流入して来るのは他地域の部落出身者である」と誤解していたため、この拡大したスラム街をひとまとめに部落とみなし、その結果、1960年ごろにはA部落は6,000世帯、3万人という巨大部落となった。
 現在のA部落で江戸時代から住み続けているという世帯を探しても、たぶん見つけることはできないであろう。このように、部落には部落出身者だけが生活しているわけではなく、さまざまな人たちが部落に流入し、生活しているのである。
 一方、過疎化が進行する農村地域の部落では、流入して来る人や世帯は稀で、人口は流出するばかりであるが、これは同じ地域にある、部落ではない集落でもまったく同様である。それゆえ、都市部でも農村部でも、人口の動態について、部落だけが周辺地域と大きく異なっているわけではない。
 「部落出身者は固まって住んでいるから差別される」という意見があるが、これは部落には部落出身者が固まって住み続けているという誤解を根拠としたものである。

3.どうして誤解なのか(第2の誤解)

 部落出身者と部落外出身者との通婚は、1960年代に入り急速に増加した(図1参照)。図1は1993年の国の調査結果から、同和地区(同和対策事業の実施対象地区として行政が指定した部落)に居住する夫婦の出身別組み合わせを夫の年齢別に示したものである。国はこの調査以降、同和地区の生活実態調査を行っていないので、これが国の最新のデータとなる。図1によると、1960年代に20歳代であった60~64歳から年齢が若くなるにしたがって「いずれかが部落外」(部落出身者と部落外出身者との結婚)が急増していることがわかる。近年は同和地区の生活実態調査が行われていないので、いま現在の具体的なデータを示すことはできないが、部落に住んでいる部落出身者の、ここ数年の結婚については、部落出身者どうしの結婚が1割台ほどで、部落出身者と部落外出身者との結婚が8割台となっているといわれている。
 このように、現在の部落では部落外との通婚が大半を占めるに至っており、部落で若年層の聞き取りをすると、両親とも部落出身であるという若者は非常に少なく、祖父母4人のうち、部落出身者は1人だけという若者も増えてきている。しかし、部落出身者に関して「ハーフ」や「クォーター」という見方をすることは、まったくない。それは多くの人たちが部落出身者は部落出身者どうしで結婚していると誤解しているからである。つまり、部落に住んでいるのは、「サラブレッドのような部落出身者」ばかりだと思い込んでいるのである。
 江戸時代は身分制社会であったので、穢多身分の人たちは穢多身分どうしで結婚した。それは百姓が百姓身分どうしで結婚したり、侍が侍の身分どうしで結婚したのと同じことである。では、江戸時代は穢多身分どうしの結婚ばかりだったので、穢多村では近親結婚が多かったのであろうか。
 これまでの部落史研究によって、穢多村の通婚圏(結婚で人が移動する範囲)が非常に広かったことが明らかになっている。たとえば、和泉(現在の大阪府南部)にあった穢多村の1814~71年の通婚圏をみると、同じ和泉の国の穢多村からだけではなく、河内や摂津、紀伊、大和、山城、丹波など、遠隔地の穢多村からも結婚でこの穢多村に人がやって来ている。江戸時代の百姓身分の通婚圏は、通常6~8キロメートル四方程度で、郡を越えることはほとんどなかったといわれる。それに対して、穢多村では、郡を越えるどころか、国を越えて結婚の行き来が行われていたのである。このように、穢多身分の人たちの通婚圏は非常に広かったのだ。
 なぜ穢多身分の人たちがこんなに広い通婚圏をもてたのかというと、江戸時代の皮革業が穢多身分によって担われていたことと関係する。皮革生産は非常に高い技術力を必要とする産業で、江戸時代にはすでに工程ごとに産地が特化していた。それゆえ、各地の穢多村から塩漬けにされた生皮(原皮)が皮なめしの盛んな穢多村に送られ、そこでなめされた革が二次加工(雪駄、太鼓、袋物、衣類などの生産)の穢多村にそれぞれ送られるというように、皮革製品の流通のネットワークが広く成立していており、このネットワークを利用して結婚の行き来が行われていたのだ。明治以降は、皮革生産の独占はなくなるが、それまで行われてきた結婚によって、遠隔地の部落とのあいだで親戚関係ができていたので、その親戚関係を利用して遠隔地の部落との通婚が続いた。部落で聞き取りをすると、非常に遠く離れた部落に親戚が多くいるという話をよく聞くことがある。
 たしかに江戸時代は、穢多身分どうしの結婚ばかりだったが、だからといって、ひとつの穢多村のなかで結婚が繰り返されていたわけではなかったのである。したがって、部落では現在だけではなく、過去に遡っても近親結婚が多かったという事実はない。

4.どうして誤解なのか(第3の誤解)

 いまの時代、自分の曾祖父母の名前を言える人は、とても少ないであろう。自分の3代前がよくわからないという時代なのだ。たとえば、Aさんという人がBさんを部落民とみなし、差別的な言動を行ったとしよう。その場合、Aさんは何を根拠にBさんを部落民とみなしたのであろうか。Bさんの祖先を調べ(Bさんが若ければ、5代前、6代前まで調べないと江戸時代まで行くことはできない)、Bさんの5代前が穢多身分であったことを確認してからBさんを部落民とみなしたのだろうか。そんなことは不可能だ。自分自身の3代前がよくわからないのに、赤の他人の5代前など、わかるはずがない。結局は、Bさんは部落に住んでいる、住んでいた、住んでいたかもしれないということを根拠に部落民とみなしたにすぎないのだ。そこでは、血筋の違いは何の根拠にもなっていない。部落には近世の賤民身分の子孫が固まって住んでいるという誤解があるだけだ。つまり、部落差別は血筋の違いを根拠にしていないのである。
 2000年に大阪府が実施した同和地区の生活実態調査によると、調査対象となった同和地区住民7,418人のうち、自分自身を同和地区出身者だと思うと回答したのは50.1%、同和地区出身者だと思わないと回答したのは35.4%であった。自分自身を同和地区出身者だと思う、思わないと回答した人それぞれに、部落差別を直接、受けたことがあるかを問うと、「ある」と回答したのは、同和地区出身者だと思うという人で38.3%、思わないという人では17.7%だった。自分は部落出身者だと思っていない人でも、部落民とみなされたら差別される可能性があるのだ。血筋の違いは、部落差別の根拠とはなっていないのである。

5.おわりに

 以上の3点の誤解を解く啓発を行うことは、市民にさまざまな気づきや新たな発見をもたらし、部落や部落出身者に対する忌避意識の低下につながるであろう。そして、その気づきや発見が部落問題に対する関心を引き起こすことになるのではないか。さらには、身近な人に自分自身の気づきを話すことにもなり、それが啓発効果を広げていくことになると期待される。
 要は、新たな気づきや発見をもたらす啓発が大事ということである。

*江戸時代、「穢多」という身分呼称は、周囲の人たちや権力者などが使い、当事者は「皮多」「長吏」などと自称することが多かったが、ここでは「穢多」を用いた。

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