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庄内式土器

ページ番号:672870163

更新日:2023年5月10日

日本考古学史に名をとどめる土器

庄内式土器の発見

 昭和9年(1934)頃、豊中市立庄内小学校の校舎を建設するために土取りをしているとき、偶然、たくさんの土器が土の中から姿をあらわしました。土器をよく見ると、弥生時代の土器にも、古墳時代の土器にも、少しずつ特徴が似ています。その後、多くの学者が研究した結果、これらの土器は、弥生時代、古墳時代という二つの時代が移り変わる、ちょうど中間期(弥生時代の終わり頃)に作られた土器であることがわかりました。昭和40年(1965)、発見場所にちなんで、「庄内式土器」という新たな土器様式名称がつけられました。
 日本で庄内といえば山形県の庄内が有名です。しかし、考古学の世界で庄内といえば、わたしたちの住む、この豊中市の庄内しかありません。

庄内式土器の特徴とは

 庄内式土器は、3世紀前半(西暦200~250年)ごろ、近畿地方でつくられた土器です。弥生土器と土師器(古墳時代の土器)の両方の特徴をもつことで知られています。庄内式土器の特徴が最もよく表れる煮炊き用の甕形土器をとりあげ、その特徴をながめてみましょう。

 1.土器の表面を刻み目のついた板(タタキ板)で叩きながら形を整えています。弥生後期の粗いタタキ目に比べると、刻み目がとても細かい点に特徴があります。
 2.内側は驚くほど薄く削ってあり(ケズリ)、その厚さは1~2ミリしかないこともあります。土器を薄く削るわざは、のちの古墳時代にも引き継がれていきます。

 3.底の形が尖りぎみで、底にも煤(すす)がべっとりと付いています。これは煮炊きをする時に、土器を台のようなものに載せて浮かし、土器の真下で火を炊いたことを示しています。弥生時代の平底から古墳時代の丸底へという、移り変わりの中間の特徴を示しています。
 このように庄内式の甕は、弥生時代後期の伝統的な甕のつくり方の上に、ケズリや底を丸くするといった新たなわざを取り入れてできました。そのわざとは、当時最も発達した土器文化をもった吉備地方(現在の岡山県)からもたらされたものでした。庄内式の甕は、当時としては最先端の土器だったのです。

 土器を薄くし、真下から火をあてることで、より早く煮ることができる…。この炊事時間の短縮という変化は、単に生活文化の変化というにとどまらず、それを必要とした社会の要請があったことを示しています。

 いっぽう、庄内から出土した同時期の壺をみると、大きく二段に開いた口の外側を櫛描文(くしがきもん)や貼り付け文で飾り付け、体部全面を光沢の出るほどに細かく磨いています。美しく飾られたこの壺は、丸い底の形から台に載せて使った(捧げる、供える)と考えられ、何らかのまつりの場で使用されたものと考えられます。
 また全国各地から出土する庄内式の飾られた壺は、墓などの特別な遺構から出土する場合が多いようです。

庄内式土器がもつ意義とは

 庄内式土器に表されるさまざまな特徴とは、いったいどのような時代の変化、社会の要求によるものだったのでしょう。庄内式土器が使われた時代。それは、中国の歴史書―魏志倭人伝―にも登場する邪馬台国の卑弥呼が、倭(当時の日本)の共通の女王として立ち、中国を頂点とする東アジア社会の中で活躍した時代であったと考えられています。このような社会の激動期に生み出された庄内式土器は、その後の巨大な前方後円墳に象徴される古墳時代のはじまりを考えるうえで、また日本の国家形成史を考える上でも、非常に重要な土器として注目されているのです。

右から、弥生時代、庄内式期、古墳時代の各土器(平底から丸底へ)

庄内から出土した土器はいま

 庄内から発見された庄内式土器は、その後、国へ寄贈され、現在、東京国立博物館で大切に保管されています。博物館の一角にある平成館では、その一部が展示されており、見学することができます(平成23年9月現在)。

市内で庄内式土器が見られるところ

豊中市立文化芸術センター 1階ミュージアムギャラリー
  〒561-0802 大阪府豊中市曽根東町3-7-2

お問合せ

教育委員会事務局 社会教育課 文化財保護係
〒561-8501 豊中市中桜塚3丁目1番1号 豊中市役所第一庁舎6階
電話:06-6858-2581
ファクス:06-6846-9649

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