豊中の歴史と歩み(市の歴史)
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更新日:2021年10月14日
豊中市の歴史を紹介していますので、項目ごとにリンクからご覧ください。
開発を物語る古墳群
豊中台地は古くから開発され、先史時代の遺跡や、桜塚をはじめ古墳がたくさん分布しています。前面に低地をひかえた水の得やすい洪積台地の末端は、自然発生的な集落地に選ばれ、海抜10メートル以下の低地が水田地帯へ発展したのは弥生時代後期以降のことです。
刀根山(海抜48メートル)丘陵南端の大阪層群の地層から大きな象の牙の化石が1本出土し、日本がアジア大陸と地続きだった第2間氷期から第3間氷期にかけて、南方地域から哺乳動物とともに、人類も移住したことが知られていますが、豊中市域に人間が住み始めたのは石器を使った旧石器時代とされています。しかし、その遺跡も数か所に過ぎません。
紀元前4世紀から3世紀に大陸から伝わった金属器を伴う農耕文化はこの地方にも及び、急速に発展し人口も増え、多数の集落ができました。それは、共同体の象徴として作られた銅鐸が、桜塚の原田神社旧境内から発見されたことでうかがえます。銅鏡を副葬した前期の待兼山古墳、北摂の古墳文化の隆盛を物語る大規模な中期桜塚古墳群、また、日本最大の規模をもつ堺市旧陶邑につぐ須恵器の窯跡が、旧桜井谷村を中心に、後期古墳群とともに分布しているのは、古代にこの地方がよく開発されていたことを物語っています。
豊島地方の中心地
大化の改新により、摂津国豊島郡に含まれ、条里制が施行されました。条里の跡は今も諸所に残っています。
豊島の名が文献にみられるのは和銅5年(712年)に太安万呂が撰上した古事記中巻からで、その後、神護景雲3年(769年)5月、称徳天皇が豊島の人15人に、姓(かばね)をさずけた記録が、続日本記にみられます。弘仁6年(815年)、万多親王らが撰進した新撰姓氏録には、当地方の氏族として椋橋部連・天神・服部連・豊島連などの名があります。これらの氏族の居住地は明らかではありませんが、とにかく古代のこの地域は、豊島地方の中心であり、大陸から来た人々も多数移住したようです。
全国各地に荘園ができた古代末期から中世にかけての本市域の荘園は、椋橋荘・利倉荘・六車御稲田などですが、院政期には、豊島地方の山野は多く藤原氏の私領になり、藤原氏の氏神奈良春日社とも密接に結ばれました。寿永2年(1183年)、源平争乱のとき、氏長者の近衛基通から奈良春日社へ寄進された垂水西牧は市内最大の荘園で、春日社神官から現地の管理者(目代)として下向した今西氏は現在でも同じ場所に屋敷を構えています。
兵火に巻きこまれる戦国時代
鎌倉時代にも本市域は、歴史の舞台に登場しています。承久3年(1221年)5月、摂津国長江荘と椋橋荘の地頭が白拍子亀菊の領地を横領し、これがきっかけとなって後鳥羽上皇と鎌倉幕府の間にミゾができ、承久の乱が起こったと吾妻鏡、承久軍物語、承久記などに記されています。また、太平記によれば、南北朝時代に豊島地方を舞台に豊島河原合戦が展開されています。
ついで室町時代に起こった応仁の乱には、本市域も戦乱のちまたになったことは想像にかたくありません。椋橋城などはその代表的なもので、東西両軍が秘術をつくした記録が数多く見られます。文明2年(1470年)7月26日、西軍が椋橋城を攻めたとき、城将薬師寺与一の部下、夜久主計が防戦に功があり、東軍の総帥細川勝元から感状をうけたことが夜久文書に見られます。また、経覚私要抄には、文明2年8月23日、西軍大内政弘の軍が東軍を破り、進んで椋橋城を攻めたと記しています。
各地に新興の国人層が勢力を争った戦国時代の本市域には、刀根山城・原田城などが築かれましたが、これもやがて新興の強大な勢力にしだいに滅ぼされ、近世大名領国ができたあとは姿を消し、天正元年(1573年)ごろのこの地方は荒木村重の領国となりました。同7年に、村重が織田信長に反抗して攻められたとき、本市域の村々は多く兵火に焼かれましたが、織田信長、豊臣秀吉の全国統一が進むにつれしだいに復興しました。
江戸時代の本市域には、大名に青木氏(1万石)があり、蛍池に陣屋を築いて政治を行いましたが、上新田は淀藩の領地、桜井谷には安部藩の陣屋が置かれ、ほかに一橋藩領、保科藩領や代官支配地、公家領、旗本領などが入り組んでいました。これは徳川幕府が豊中地方を畿内の重要地域として、支配をゆるぎないものにするため、譜代大名、旗本などの所領を入りまじらせ、さらに天領を支配して、「碁石を打交候様」な錯綜した「入組支配」を行い、統一のないものにしたものでした。このため明治維新の後も、府県、郡村の離合集散を重ねました。
豊中村の誕生
明治維新を迎え、廃藩置県後、村々の行政機構は改革され、数次にわたる行政区画の編成替えなどが行われました。明治22年(1889年)4月、地方自治制がしかれ、摂津国豊島郡新免村、南轟木村、山ノ上村、桜塚村、岡町村の5か村を合併して豊中村が置かれました。「豊中」の地名が生まれたのはこのときで、豊島郡の中央にあたることから名付けたと伝えられています。明治29年(1896年)4月、豊島郡と能勢郡が合併し豊能郡になったので、豊中村も豊能郡豊中村となりました。
昭和2年町制、11年市制施行
明治43年(1910年)3月、阪急電鉄宝塚線の前身箕面有馬電気軌道が開通し、沿線は住宅地として開けはじめました。市内の駅は、はじめ服部・岡町の二つでしたが、開通の翌月蛍池ができ、町の発展にともない明治45年(1912年)5月曽根、大正2年(1913年)10月豊中、昭和26年(1951)5月庄内と相ついで増え、現在の6駅になり、市街は駅を中心にしだいに発展していきました。
大阪市に近い地の利と、起伏に富んだ丘陵地帯は、早くから絶好の住宅地として選ばれ、文教都市の名声が高まるにつれ、人口は急激に増え市街地も大きく広がりました。
戦後の発展はことにめざましく、公営、私営の住宅が建ち並び、学校・道路・上下水道等都市施設の整備充実、千里丘陵のニュータウン建設、名神高速道路、阪神高速道路、新御堂筋、中央環状線等の開通とも相まって、市勢は急速に発展を遂げています。
主なできごと
昭和11年(1936年) | 豊中町、麻田村、桜井谷村、熊野田村が合併、豊中市となる |
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昭和13年(1938年) | 市役所旧庁舎が完成 |
昭和14年(1939年) | 市章を制定 |
昭和21年(1946年) | 豊中市歌が誕生 |
昭和22年(1947年) | 中豊島村、南豊島村、小曽根村を編入 |
昭和28年(1953年) | 三島郡新田村のうち大字上新田を編入 |
昭和30年(1955年) | 豊能郡庄内町を編入、現市域になる |
昭和37年(1962年) | 市役所庁舎(第一庁舎)が完成 |
昭和38年(1963年) | 米国・サンマテオ市と姉妹都市提携 |
昭和40年(1965年) | 平和都市を宣言 |
昭和41年(1966年) | 千里ニュータウン構想に基づき新千里北町が完成 キンモクセイとバラが市の木と花に決まる |
昭和49年(1974年) | 沖縄市と兄弟都市提携 |
昭和53年(1978年) | 豊中市総合計画を策定 |
昭和58年(1983年) | 非核平和都市を宣言 |
昭和59年(1984年) | 人権擁護都市を宣言 |
昭和61年(1986年) | 新豊中市総合計画を策定 |
平成4年(1992年) | 市役所第二庁舎が完成 |
平成7年(1995年) | 阪神・淡路大震災で府内最大の被害 |
平成9年(1997年) | 柴原町に新・市立豊中病院がオープン |
平成10年(1998年) | 行財政改革大綱と行財政改革実施計画を策定 |
平成13年(2001年) | 第3次豊中市総合計画を策定 特例市に移行 |
平成19年(2007年) | 自治基本条例を施行 |
平成23年(2011年) | 南部陽一郎さんを名誉市民に選定 |
平成24年(2012年) | 中核市に移行 |
平成28年(2016年) | 山田洋次さんを名誉市民に選定 |
平成30年(2018年) |
第4次豊中市総合計画を策定 |
令和2年(2020年) | 松本孝弘さんを名誉市民に選定 |
令和3年(2021年) | 市制施行85周年 |
お問合せ
都市経営部 広報戦略課
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